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「米里」という地名は、入植した住民が「米のとれる里」を願って名付けた
という。米里のさらに東の「東米里」地区は、明治期に水田耕作が試みられた
らしいが、大谷地・厚別原野にまたがる河川の集中する泥炭質の湿地で、たび
たび近くの豊平川の氾濫・洪水に見舞われ、豊平川本流の流路切替が行われる
昭和17年頃まで長らく無人の地であったらしい。
「東米里八幡神社」は、明治26年山田某が富山県宇佐八幡宮から勧請・祭祀
したとされている。30年ほど前に父が残したスケッチに描かれたこの神社周
辺の風情は今もあまり変っていない。
鄙びた神社の風情を楽しんだ後さらに北へ進み、道央自動車道の下を潜って
500mほどで「旧豊平川」の川筋に突き当たる。この辺りは左右畑地が広が
って真西には新設された「白石清掃工場」の大きな建物と煙突が青空にくっき
りと映えている。旧豊平川には既に水流はなく、アオコの生えた淀んだ水面が
川岸に生い茂った雑草、雑木の陰にかいま見えている。そのうちに水も無くな
って湿地となり、その将来は埋め立てられる運命か。
雁木大橋を渡り雁木篠路連絡線道路に入ってさらに北へ1キロほど進んで行
くと、人工河川「雁木新川」に平行した「豊畑通」に出る。雁木新川の水路は
水面も見えぬほどヨシ、イタドリなどの雑草が生い茂っている。この三叉路の
角地には「豊畑神社」が置かれている。神明造りの社殿は、昭和2年、雁来豊
畑地区住民の熱望により、札幌伏見稲荷神社の分社として創祀をみた。どうり
で、朱塗りの鳥居、献灯の他、社殿の両側には軟石造一対のお狐様もある。鳥
居の横には札幌では珍しいケヤキの大木が良い木陰を作っていた。
三角点通を南に進み東苗穂11条付近で街道から少し西に入った住宅の狭間
に鎮座する「農本神社」を見に立ち寄る。
農本神社の発祥は、明治2年水森某がこの地に移住した後、同16年小祠を建
て自家の守護神として創祀し、さらに昭和8年有志者が社殿改築移転、「苗穂
山神社」と称し第一部落守護神とした。「農本」という変った名前は、お硬い
「農本主義」などといった代物ではなく、この地域の通称らしいがその名前の
由来については不明である。
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東米里八幡神社 |
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白石清掃工場を望む |
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豊畑(稲荷)神社 |
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苗穂山農本神社 |
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