東米里から三角点通りを歩く
'07.09.14. 晴れ
 「米里」という地名は、入植した住民が「米のとれる里」を願って名付けた という。米里のさらに東の「東米里」地区は、明治期に水田耕作が試みられた らしいが、大谷地・厚別原野にまたがる河川の集中する泥炭質の湿地で、たび たび近くの豊平川の氾濫・洪水に見舞われ、豊平川本流の流路切替が行われる 昭和17年頃まで長らく無人の地であったらしい。 「東米里八幡神社」は、明治26年山田某が富山県宇佐八幡宮から勧請・祭祀 したとされている。30年ほど前に父が残したスケッチに描かれたこの神社周 辺の風情は今もあまり変っていない。

 鄙びた神社の風情を楽しんだ後さらに北へ進み、道央自動車道の下を潜って 500mほどで「旧豊平川」の川筋に突き当たる。この辺りは左右畑地が広が って真西には新設された「白石清掃工場」の大きな建物と煙突が青空にくっき りと映えている。旧豊平川には既に水流はなく、アオコの生えた淀んだ水面が 川岸に生い茂った雑草、雑木の陰にかいま見えている。そのうちに水も無くな って湿地となり、その将来は埋め立てられる運命か。


 雁木大橋を渡り雁木篠路連絡線道路に入ってさらに北へ1キロほど進んで行 くと、人工河川「雁木新川」に平行した「豊畑通」に出る。雁木新川の水路は 水面も見えぬほどヨシ、イタドリなどの雑草が生い茂っている。この三叉路の 角地には「豊畑神社」が置かれている。神明造りの社殿は、昭和2年、雁来豊 畑地区住民の熱望により、札幌伏見稲荷神社の分社として創祀をみた。どうり で、朱塗りの鳥居、献灯の他、社殿の両側には軟石造一対のお狐様もある。鳥 居の横には札幌では珍しいケヤキの大木が良い木陰を作っていた。

 三角点通を南に進み東苗穂11条付近で街道から少し西に入った住宅の狭間 に鎮座する「農本神社」を見に立ち寄る。 農本神社の発祥は、明治2年水森某がこの地に移住した後、同16年小祠を建 て自家の守護神として創祀し、さらに昭和8年有志者が社殿改築移転、「苗穂 山神社」と称し第一部落守護神とした。「農本」という変った名前は、お硬い 「農本主義」などといった代物ではなく、この地域の通称らしいがその名前の 由来については不明である。
東米里八幡神社
白石清掃工場を望む
豊畑(稲荷)神社
苗穂山農本神社
目次  前のページ  次のページ