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山鼻に屯田兵村が置かれたのは明治9年。兵屋240戸、1,114名も入
植したそうだから、当然、心の拠り所としての祈願・祭礼のため地域の神社が
設けられる。明治23年創祀の「山鼻神社」は西屯田の南端、現在の中央図書
館の敷地の一角にあったという。現在は、中島の護国神社の境内に小祠と祭神
三柱(耳早之雄神・大山祇大神・天満宮)が馬頭観音の碑とともに並んでいる。
軟石製の小祠の表面には「山鼻神社」と「明治九年○月」の文字が刻まれてい
るのだが、この年は神社の創祀ではなく兵村開設の年にあたる。このような小
祠は、以前山本稲荷で見たものとよく似ている。
「護国神社」は、元々、明治10年の西南の役に出兵し殉死した屯田兵士の
慰霊のため、翌11年開拓使が偕楽園前に忠魂碑を建てたのが始まりとされる。
明治40年に中島遊園地内に移された後、昭和14年に指定護国神社となり、
従来奉祀の戦没者に加えて、殉職警官・消防官などの合祀を行っている。戦後
進駐軍の命令で札幌彰徳神社と改名されたが昭和34年復名した。境内には多
数の慰霊碑が建立されているが、コンクリート製の砲兵第24大隊(旭川)歩
哨詰所という一風変った記念物も神社の門衛代わりに立っている。
「鴨々川」の名前の由来には諸説あって定かではないが、現在の中島公園の
外周を流れて札幌本府の創成川に繋がる豊平川の支流であった。時には、豊平
川本流の洪水が水門を破って市内を冠水したこともあったという。現在の地図
を見ると鴨々川の取水口付近の水路配置に疑問があったので、現地確認に出向
いた。私の調査によると、鴨々川への樋門は確かに幌平橋に近い中島公園庭球
場の向かい側の豊平川左岸堤防に切られているのだが、何と豊平川からの取水
口はさらに600mほど上流に遡った川岸にあって、ここから河川敷下を暗渠
で通して川水を樋門へ供給している。豊平川はまだまだ雪解の増水があって、
この辺りでもその水流は強い。
「幌平橋」の名は、中の島地区を経由して札幌と平岸とを結ぶ橋という意味
から名付けられたと理解していた。しかし、幌平橋の札幌側の橋袂(地下鉄幌
平橋駅出口の前)の豊平川左岸土手の高まりには「ホロヒラタイ」という木製
銘板がある通り、元来はアイヌ語から来ているものらしい。この場所には、戦
前まで旧豊平川治水事務所が置かれていた場所で、都会の喧騒を知らずげにひ
っそりと当時の庭木だったらしい姿のよいオンコの木や日高石の記念碑が佇ん
でいた。
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山鼻神社創祀の小祠 |
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旧砲兵二十四連隊歩哨詰所 |
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豊平川から鴨々川への取水口 |
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幌平の地名の起こりの土手 |
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