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過去も現在も自宅が近いことで円山公園には何度も足を運んだ。しかし、こ
れまでに広い園内の数ある記念碑をじっくりと眺めたことはない。最近の円山
公園は整備が進み程よい野趣が失われて、都心部の中島公園のように箱庭的な
人工的景観が強くなってきているのには閉口する。そんな公園内に建つ新旧、
趣旨様々な記念碑を辿って歩くのも一興だろう。 円山登山の大師堂口の川
を挟んで、大正3年建立の「開山始」の碑と教育委員会と文部省の手になる
「天然記念物円山原始林」の碑がある。好天の休日で登山者も多く見かけるが、
老若男女まず見向きもせず勇んで登山道を登っていく。
太い杉木の林立する円山川の沢を少し遡って動物園正門の丘陵に上がり円
山球場方面に向かう。球場と陸上競技場の間の広場には「南部忠平顕彰碑」
(1964)が建っている。1932年第10回オリンピック・ロスアン
ゼルス大会で札幌北海中学出身の南部忠平が三段跳びの世界新記録15.
72mで優勝した偉業を記念したものである。碑の表面はその時の彼のジ
ャンプの雄姿をブロンズ板に写している。 また、その隣には引き続く
1936年第11回オリンピック・ベルリン大会で田島直人が三段跳び
16mの世界新記録で優勝した時、金メダルとともに授与された柏の苗木
から育てた「栄光の木」が植えられている。
北海道神宮の裏手を通って神宮の拝殿門前に出る。正門の左手には、明治2年
開拓使判官の命を受けて来札、札幌の街の創建に貢献のあった島義勇(よしたけ)
が円山のコタンベツの丘の岩に立って市街化の構想を立てているブロンズ像が
建つ(昭和49年)。烏帽子、直垂を纏った像が大きいためか、少し像の背丈
が詰まって見えるようだが、当時の人の一般的な体格なのかも知れない。コタン
ベツの丘の地名は現在では残っていないが、現在の神宮のある円山川の河岸
段丘では低すぎて当時の原始林越しに街割りを俯瞰することは不可能であろう。
もっとも可能性の高い説は、当時モイワ山と呼ばれていた現在の円山山頂から
見下ろしたというのが地勢的に適当と思われる。
円山公園の北詰、北1条通り(表参道)に近い林の中に「岩村通俊之像」(昭
和42年建立)が建っている。明治初めの札幌市街の設計は島義勇がg)京都を
模して構想・着手したが、支出過多の責任を問われすぐに上司の開拓使長官・
東久世通禧(みちとみ)により判官を罷免される。その後の判官を引き継いで
実際に札幌の建設を推進したのは岩村であった。しかし、彼も黒田清隆次官と
衝突して明治6年免職となったが、その後19年に北海道庁初代長官となり、
赤レンガ庁舎を造った。北海道を愛し、長男八作は浦臼の晩生内開拓者。娘を
蝦夷子、北子と名づけている。
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円山登山口大師堂前の開山始碑 |
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南部忠平顕彰碑 |
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島判官銅像 |
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岩村通俊之像 |
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