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大正11年から昭和11年の15年間軽川と石狩・花畔との間に敷設された
馬鉄「軽石軌道」は、現JR手稲駅北口から「石狩手稲通」を真っ直ぐに北へ
花畔と結んでいた。旧石狩手稲通は、新高架道路の迂回により鉄道線路で行き
止まりとなり、申し訳程度に人道橋が架かっている。人道橋の橋桁には馬鉄当
時の追憶のためか「花畔人道橋」と書かれている。馬鉄の走っていた頃、当然
人道橋はなかったが、馬鉄で花畔に行く人はその下の踏切を渡ったに違いない。
現在の石狩手稲通の高架橋を渡って本町に入り、旧国道を横断して現国道5
号線に出る。この間、軽川は400mほど暗渠に潜るが、国道の向かい側の山
側から上流部ではまた顔を見せる。しかし、川床と護岸はコンクリートで囲ま
れていて、もはや夏場でも川水が涸れることはなさそうだ。軽川という地名は
昭和26年の町制施行とともに「手稲町」となり、駅名も「手稲駅」と変わっ
たが、川の名前はそのまま残っている。
国道5号線に沿って「手稲中央小学校」の広い敷地を過ぎたところから山側
に上っていくと、街区公園の横に「手稲コミュニティセンター」の建物がある。
この場所は、かって手稲町役場があった場所だが敷地の外れの目立たない一角
に、2基(50年、80年)の「開村記念碑」と「手稲村道路元標」がひっそ
りと座っている。さらにその近くには、石狩・花畔と軽川の間を走った馬車鉄
道「軽石(がるいし)軌道」で使われた客車(復元)と2つの駅名標識「軽川
停車場」「花畔停車場」が記念物として保存・設置されている。
国道5号線を手稲駅方面に少し戻った本町2条3丁目に「手稲神社」がある。
明治30年「軽川遥拝所」として札幌神社の開拓三神の分霊を祀ったが、同3
2年に手稲神社と改称し長らく手稲の総鎮守・村社となった。この神社独自の
神事として電波事業安全祈願祭なるものがあるが、手稲山の山頂に電波塔が林
立している現在、なるほどと頷ける。また、山頂には神社の奥宮もある。
手稲の繁華街に建つ神社らしくその境内の敷地は狭いが、記念碑も多く、社
殿は総鎮守に相応しく広い石段の上にどっしりと建っている。時節柄、境内に
植わった柏木やカエデの紅葉が色を添えている。
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JR手稲駅北口「花畔人道橋」 |
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国道5号線から軽川上流 |
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馬鉄軽石軌道の客車と「軽川停車場」標識 |
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手稲神社拝殿 |
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