手稲本町を歩く
'07.10.31. 晴れ
 大正11年から昭和11年の15年間軽川と石狩・花畔との間に敷設された 馬鉄「軽石軌道」は、現JR手稲駅北口から「石狩手稲通」を真っ直ぐに北へ 花畔と結んでいた。旧石狩手稲通は、新高架道路の迂回により鉄道線路で行き 止まりとなり、申し訳程度に人道橋が架かっている。人道橋の橋桁には馬鉄当 時の追憶のためか「花畔人道橋」と書かれている。馬鉄の走っていた頃、当然 人道橋はなかったが、馬鉄で花畔に行く人はその下の踏切を渡ったに違いない。


 現在の石狩手稲通の高架橋を渡って本町に入り、旧国道を横断して現国道5 号線に出る。この間、軽川は400mほど暗渠に潜るが、国道の向かい側の山 側から上流部ではまた顔を見せる。しかし、川床と護岸はコンクリートで囲ま れていて、もはや夏場でも川水が涸れることはなさそうだ。軽川という地名は 昭和26年の町制施行とともに「手稲町」となり、駅名も「手稲駅」と変わっ たが、川の名前はそのまま残っている。



 国道5号線に沿って「手稲中央小学校」の広い敷地を過ぎたところから山側 に上っていくと、街区公園の横に「手稲コミュニティセンター」の建物がある。 この場所は、かって手稲町役場があった場所だが敷地の外れの目立たない一角 に、2基(50年、80年)の「開村記念碑」と「手稲村道路元標」がひっそ りと座っている。さらにその近くには、石狩・花畔と軽川の間を走った馬車鉄 道「軽石(がるいし)軌道」で使われた客車(復元)と2つの駅名標識「軽川 停車場」「花畔停車場」が記念物として保存・設置されている。




 国道5号線を手稲駅方面に少し戻った本町2条3丁目に「手稲神社」がある。 明治30年「軽川遥拝所」として札幌神社の開拓三神の分霊を祀ったが、同3 2年に手稲神社と改称し長らく手稲の総鎮守・村社となった。この神社独自の 神事として電波事業安全祈願祭なるものがあるが、手稲山の山頂に電波塔が林 立している現在、なるほどと頷ける。また、山頂には神社の奥宮もある。  手稲の繁華街に建つ神社らしくその境内の敷地は狭いが、記念碑も多く、社 殿は総鎮守に相応しく広い石段の上にどっしりと建っている。時節柄、境内に 植わった柏木やカエデの紅葉が色を添えている。
JR手稲駅北口「花畔人道橋」
国道5号線から軽川上流
馬鉄軽石軌道の客車と「軽川停車場」標識
手稲神社拝殿
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